防災・減災への指針 一人一話

2013年10月03日
大規模災害時指定収容避難所の開設と運営
多賀城市役所 建設部都市計画課
鎌田 洋志さん

過去の経験による判断の可否

(聞き手)
 多賀城市の住歴を教えて頂けますか。

(鎌田様)
 私は生まれてからずっと、七ヶ浜町に住んでいます。七ヶ浜町は三方を海に囲まれた町です。雨が降っても、雨水は海に流れるため、降雨による水害はほとんどありません。しかし、今回の大震災では大津波により、大きな被害を受けました。

(聞き手)
これまでチリ津波地震や宮城県沖地震などもありましたが、それらのご経験が活かされた場面はありましたか。

(鎌田様)
 宮城県沖地震の時は高校生だったと思います。あの時には地震こそ強かったのですが、津波被害はありませんでした。1960年(昭和35年)のチリ地震津波は、父や祖母から聞かされていました。町名のとおり、浜なので、大変だったと聞かされていました。ですが、今回とは規模が全く違ったそうです。その時は幅員3~4mの道路を船が流れて来たそうですが、今回の大震災では家が流れてきました。チリ津波のことはだいぶ聞かされていましたが、それとは比較にならないほどの大規模災害だという印象を持っています。

(聞き手)
地震が起きたらどういう行動を取れなどということを、伝承されたり教えられたりしましたか。

(鎌田様)
 住んでいる所は昔ながらの集落なので、地区のまとまりがあります。ハザードマップの作成や災害の避難経路の確認などはだいぶ力を入れていましたので、それに基づいて行動するという意識はありました。ですが、なかなかその通りに行かない部分もありました。

(聞き手)
2010年(平成22年)のチリ地震津波ではどういう対応をされたか、覚えていますか。

(鎌田様)
 市役所では災害対策本部が設置されました。私は非常配備ということで、大代地区に配備されました。大代の貞山運河に行ったところで津波が来ましたが、ぎりぎりで被害を免れました。その時に、聞かされていた以前の津波の話が頭をよぎりました。

(聞き手)
特に今回の大震災で、その伝承がどこかの場面で活きたことはありましたか。

(鎌田様)
 宮城県沖地震にしてもチリ地震にしても、津波による被害がなかったことが、逆に油断の原因になったのかもしれません。以前の経験から、ここなら大丈夫、車で逃げても構わないというような認識があったのだと思います。今回は多賀城もそうですが、一次避難所が被害を受けたところもありました。その一次避難所も過去の経験や伝承をもとに指定されているはずなので、そこが被害を受けたということは、過去の経験が逆に作用してしまった部分も多少あったように思います。

(聞き手)
今回の震災が起きたときに、宮城県沖地震の再来だと感じましたか。また、津波が来るという想定はしていましたか。

(鎌田様)
 これが宮城県沖地震なのかと思いました。揺れが激しかったので再来のイメージはありましたが、津波の想定はしていませんでした。

議員の行動マニュアルを作成

(聞き手)
 発災時の居場所と状況についてお聞かせください。

(鎌田様)
 震災時は議会事務局に所属していました。議員さん方への応対と、市議会の運営関係を行うのが主な仕事です。発災時には3階の議会事務局で執務をしていました。すぐに揺れが強くなったので、机の下に潜りました。ずいぶん建物の年数が経っていたので、危ないのではと思いました。議会事務局には5、6人しか職員がいませんでしたが、当時の局長が早く外に逃げろと言っていたので、他の職員は揺れが収まる前に逃げました。私は一人だけ机の下に潜り、揺れがすっかり収まってから外に出ていきました。そこで職員から「どうして一人だけ逃げないんだ」と言われましたが、「違う、揺れが収まるまで待機して、安全が確認されてから逃げるようになっているはずだ」と返しました。全員が無事だったので冗談半分に話せましたが、そんなことがありました。

(聞き手)
その時には、議員さんは誰もいなかったのでしょうか。

(鎌田様)
その時はいませんでした。ちょうど前日に議会が終わっており、議員の方は一人もいませんでした。

(聞き手)
 議員さんがいる間の避難訓練はしておられたのでしょうか。

(鎌田様)
 訓練の経験はありませんでした。少し話が逸れますが、発災直後、私は避難所の担当だったのですぐに出かけました。一か月ほどで戻ってきましたが、ある時に突然、県から電話がありました。議員の方で被災された方はいないかという問い合わせでしたが、先ほど申し上げた通り、庁舎内に議員はいませんでした。考えてみれば、議員の安否確認を一切していなかったことを、問い合わせが来て初めて思い至りました。その反省を受けて、議会でも地震などの災害マニュアルを新しく作りました。

(聞き手)
 他の市町村では、議会がマニュアルを持っていることはあるのでしょうか。

(鎌田様)
 当時は関東のどこか一カ所が持っていた程度で、それ以外ではなかったと思います。多賀城の議会で発災直後に作り、それが他に広まったと思います。

(聞き手)
議員さんがマニュアルを作成されたということでしょうか。

(鎌田様)
 案はこちらで作りましたが、議員さん方の会議で決めました。率先して決めないといけないという雰囲気があったのです。

(聞き手)
それは、議員の避難マニュアルですか。

(鎌田様)
 いえ、発災直後の議員の取るべき行動マニュアルです。震災に遭ったら事務局にまず自分の安否を教える、震度5以上になったら全員が集まる、情報収集に回るなどのマニュアルになっています。

(聞き手)
 議員さんの震災後の動きはどのようなものでしたか。

(鎌田様)
 議員の方が任意で集まっての会議は、3月末頃から頻繁にしています。議会は特殊な立場で、本会議を開かないと正式な行動がとれません。6月の本会議まで待つわけにもいかなかったので、議員の方で任意の会合を開いて、6月まで行動されていました。それからは正式に調査特別委員会を立ち上げて行動していました。

(聞き手)
行動マニュアルを活用する場面は、発災後にございましたか。

(鎌田様)
地震が何度か起きたので、活用する場面はありました。水害は一度大きなものがあった程度で、それ以外で集中豪雨などには見舞われませんでした。

初めての大規模災害時指定収容避難所開設

(聞き手)
 避難所担当だった頃のお話をお聞かせください。

(鎌田様)
大規模災害時指定収容避難所となる多賀城東小学校の班長をやっていました。市役所から避難所へ向かう途中の産業道路の念仏橋は既に警察に通行止めにされていました。理由を話して、どうにか通らせて頂きました。私自身が津波という想定をしていなかったので、多賀城東小学校に着いてから、貞山堀沿いにある大代地区公民館へ資材を取ってきてほしいと班員に指示を出しました。大代地区公民館は少し低い立地なので、そこに向かった時に津波が来てしまい、職員をだいぶ危ない目に遭わせてしまいました。幸い、怪我などはなかったので一安心でしたが、津波のイメージがあれば、そういう指示を出さずに済み、別の行動を取れたのかもしれません。

(聞き手)
大代地区公民館の資材・機材はどういうものがあったのでしょうか。

(鎌田様)
まず、本部との連絡用のトランシーバーとヘルメットです。あとは、通常防災で使うような救急用品や担架などを置いてありました。ちょっと特殊な事情があって、大規模災害時指定収容避難所と離れているので、取りに戻るように指示したのです。

(聞き手)
その特殊な事情というのは、どういう事情なのでしょうか。

(鎌田様)
 実は、大代地区公民館は市役所の施設で、使い勝手が良いのです。通常の大雨などでは支障がないので、通常であればそこを拠点として活動していました。東日本大震災の前には、大規模災害時指定収容避難所まで避難することは全くありませんでした。
 また、大規模災害時指定収容避難所を開けることそのものが初めての経験でした。訓練では経験しましたが、訓練と実際の状況は違います。私たち担当職員が行った時には、学校で既に体育館を開けていました。マニュアル上では、震災で避難所を開ける時にはまず職員が鍵を開け、安全確認をすることになっていました。マニュアルも読んではいましたが、それに従っているどころではありませんでした。

(聞き手)
それは、小学校の先生が判断して開けていたということでしょうか。

(鎌田様)
そうだと思います。私たちが到着した時には、もう中に避難者の方がいました。

(聞き手)
体育館はどのような被害があったのでしょうか。

(鎌田様)
 ボードが落下したり、天井の電灯が外れたりしました。電灯は辛うじて落下まではいきませんでした。

(聞き手)
 その混乱の中でどのような対応をされたのでしょうか。

(鎌田様)
 余震がひどく、ライフラインは全て止まってしまっていましたので、どうやったら住民の方々に安全に避難して頂いて、一晩を過ごすかしか考えられませんでした。それから皆さん着の身着のままで来られていたので、食べ物の心配がありました。確かその日の夜1時~2時頃に、本部から食パンが届きました。当時600近い人がいましたので、数量が足りないから半分の量で分けてくださいと指示しました。ある程度渡すとそれでも足りなくなったので、さらにその半分で分けてくださいと指示しました。その夜は、一人当たり4分の1枚の食パンで過ごしていただきました。

(聞き手)
大代地区公民館に備蓄があったのでしょうか。

(鎌田様)
そうです、乾パンなどがありました。これも余談になってしまいますが、隣の七ヶ浜町などでは、発災当日の晩からおにぎりの炊き出しをしていたそうです。多賀城でも新田などでは炊き出しをしていたらしいのですが、地区のほとんどが被災した大代地区では無理でした。

(聞き手)
 避難所にたくさんの方がいる中で、場所の整理などはどのようにしたのでしょうか。

(鎌田様)
 無我夢中だったので、記憶はかなり薄いです。職員も地区役員も、できることをやっていたというくらいで、あまり覚えていません。

(聞き手)
避難所である学校の使い方はどのようなものだったのでしょうか。

(鎌田様)
 私の担当は大代地区だったので、多賀城東小学校を指定避難所として使用することになっていたのですが、隣の笠神地区では、東豊中学校を避難所とすることにしていました。その中学校には武道館があり、畳の部屋が確保できます。そこに笠神の方だけでなく、大代の方でも足腰が悪い方や、赤ちゃんがいる方などは共同で入れて頂きました。当初は学校の音楽室など、絨毯敷きのところにお年寄りや子供を入れていました。

(聞き手)
 市役所との連絡はほとんどできなかったと思いますが、今回はどのような連絡手段を取られたのでしょうか。

(鎌田様)
 最初は一台だけ持ち出したトランシーバーを使いました。ですが、トランシーバーは、停電のため充電できず、二日ほど使って、そこで電池が切れました。あとは数日後に電気が通るようになってから、個人の携帯電話で連絡しました。

(聞き手)
 発電機などはなかったのでしょうか。

(鎌田様)
 実は、地区住民の方が発電機を一台だけ持ってきてくださいましたので、体育館の表に付けました。あとは学校から集められるだけ懐中電灯をかき集めて、夜のトイレに行く人や階段を照らしました。東小学校は一階部分がピロティで、二階が体育館になっています。ですから、夜にトイレに行くために階段を通らなければいけませんでした。下を風も通るので、寒かったです。毛布も、あまり役に立ちませんでした。
 当時は震災当日から、物資が全く届かない状態でした。自宅は無事ですが不安なので逃げて来た方などは、自分たちの分だけでなく、毛布を複数枚余計に持ってきてくださったので、お年寄りの方や赤ちゃんがいるご家族などには、その毛布を使ってもらいました。
 それから私が良かったと思っているのは、三月から四月にかけてのことだったので、食べ物の消費期限などをさほど心配せずに済んだことです。もしこれが梅雨から夏にかけて起きていたら、食べ物の心配も途方もないことになっただろうと思います。

区長を中心とした運営組織

(聞き手)
住民の方との協働した作業はございますか。

(鎌田様)
 大代は土地が低い地域なので、被害が大きかったのです。何日か後から東豊中学校で炊き出しが始まった時に、そのおすそ分けを頂きました。最初は600人ほどいましたが、実際に何週間かそこで過ごした方は400人ほどだったと思います。
 大代地区は5つの区に分かれているのですが、私のいた避難所の中には、大代の区長さんが一人だけいました。複数の区長さんがいる訳でもなかったので、私たちはその方一人に相談すれば済みました。住民の方との繋がりが、区長さんを中心に回っていました。ですから、何日後かに組織を作ることになった時にも区長さんを筆頭にして、衛生班や食事担当などをすぐに編成できました。班を作れたのは良かったのですが、うまく行かなかったこともありました。

(聞き手)
うまくいかなかった理由が何かあったのでしょうか。

(鎌田様)
 一番大きな理由は、一人一人の被災状況が違うことです。役員を引き受けてくれる方は、地区の役職をしている方です。そうすると日に日に自分の家の復旧で忙しくなり、徐々に抜けていってしまいます。そうなると組織が空洞化してしまい、うまく回らないのです。私たちから区長さんや他の役員さんに言うにしても、事情を知っている分、言い出しにくいところがありました。

高校生や子どもたちの活躍

(聞き手)
組織が回りづらくなったときの打開策はありましたか。

(鎌田様)
 あまり対策は取れていませんでした。何しろ夜になると人はいましたが、昼間になると目に見えてお年寄りの方や子どもだけになってしまいます。ですが、その中でも人がいないなりに皆さん動くものだと思いました。組織があった時には、届いた食糧の配布、トイレの水汲みなども組織の若い人を中心にしていました。ですが、いなくなればなったなりに、できる範囲でお年寄りも子どもも動きました。

(聞き手)
 避難所では、炊き出し時だけ急に人が増えることがありますが、その点についてはどうでしたか。

(鎌田様)
 私たちの方では炊き出しはしませんでした。できる状態ではなかったことと、隣の東豊中学校の避難所からおすそ分けを頂けたことが理由です。今いる人数は把握していましたので、その分はいない人の分も確保して頂きました。また、大代では在宅被災者の方にも食糧を配りました。

(対象者)
大代では在宅被災者のところまで持って行ったのですか。

(鎌田様)
 職員と、高校生の方や役員の人に手伝って頂いて配りました。班長としての反省点ですが、私は避難所班長であり、大代の班長でもありました。その視点で当時を振り返ってみると、指定避難所の体育館の運営でいっぱいになってしまって、他が全くできていなかったように感じます。避難所に避難してきた方は、確かに被害があり、家がなくなるなど大変でしたが、中には避難所に来たくても来られない在宅被災者の方もいました。そういう人たちのケアができなかったのが反省点だと思っています。自宅で寝られるなら大丈夫だろうと最初は思っていましたが、どうもそうではないと分かりました。避難生活の後半になってからは、地区の役員の人などが在宅被災者の方のところに伺いました。ですが、最初の頃はパンなども全く回すことができずにいたので、そこが反省点です。

(聞き手)
 他にどのような活動をしたか、覚えている部分や気付いたことをお話し下さい。

(鎌田様)
 人を使うのは本当に難しいことですが、そう言っていられなかったので、手の空いている人は誰でも協力してもらいました。あとは、地区が被災して辛い思いをしている中ではあるのですが、和めるような雰囲気づくりが必要でしょう。例えば、市役所から、火を使わずに50人分のごはんを作れる炊き出しセットのようなものが送られてきたのですが、職員を始め、大人が手をかけるのではなく、子供たちを集めて作ってもらうことによって、皆が温かな気持ちになるというような、ちょっとした工夫で場の雰囲気が和んでくるのです。

(聞き手)
楽しみながら、ごはんも作るということですね。小学生もいたという話もありましたが、中学生、高校生はどれくらいいたのでしょうか。

(鎌田様)
そんなに多くいなかったです。

(聞き手)
今では中学生、高校生は避難所の担い手だと比較的よく言われますが、その時はどうでしたか。

(鎌田様)
 最初から率先して活動してもらうことを求めるのは難しいと思うのですが、一度手を貸してくれると次もやってくれます。先ほどの在宅者に対する食糧配布についても、たくさん配布しなければならないので、地区の人に手伝ってもらいましたが、その半数は高校生でした。区長さんが声掛けしてくださり、学校が休みだった子どもたちを連れてきてくださったのです。その子どもたちも含めて10名弱で、毎日二回、昼と夜の配布をしてもらいました。

(聞き手)
喜ばれた配給物資は何かありますか。食べ物以外でも構いません。

(鎌田様)
 カレーライスが一番喜ばれたと思います。何しろほとんどパンでしたから。二週間ほど経った頃に、本部に電話したところ、テントの中にカレーがたくさんあるという話になったので、それをもらって、学校の調理室から大鍋を借りてカレーを作りました。その時はみんな喜んで食べていました。
 食べ物以外では、震災後に停電していた電気が点いた時と水道が通った時、みんなでライフラインのありがたみを噛みしめました。

(聞き手)
 避難所に来られたボランティアの方はどのような活動をされていましたか。

(鎌田様)
多賀城東小学校では、民間のボランティアの方は来ませんでした。秋田県や愛知県の職員の方が途中から避難所運営に、泊まり込みで入ってくださいました。それからやっと私たちも交代で自宅に帰ることができました。疲れもピークに達していたので、本部からも5日目頃に、24時間の休憩を取れと強制的に休憩させられたほどでした。班長だった私は最後に、7日目に休憩を取りました。そこからは応援自治体の方とシフトを組み、休みを取れるようにしました。

訓練と実際の相違を意識した準備

(聞き手)
 当時の対応でよかったことと、逆にうまくいかなかったことは何だったのでしょうか。

(鎌田様)
 非常配備職員の拠点と大規模災害時指定収容避難所が違っていたことは改善されるべきでしょう。避難所に物資を集め、そこを拠点とした活動ができる体制が必要だと思います。また、避難所運営は1、2回しか訓練していませんが、実際のことと訓練は違うので、私たち職員も住民も、自分がその時にするべきことをしっかりと行動に移すことができる備えが必要だと思います。

(聞き手)
避難所の出来事で心に残っていることは何ですか。

(鎌田様)
 多賀城東小学校は震災の被害も大きく、ステージ上に畳一畳ほどのコンクリートパネルがあったのですが、今にも落ちそうな状態になっていました。入った時には危ないと思い、その下を立ち入り禁止にしました。ですが、数日過ぎると皆さん、無意識のうちにその立ち入り禁止を破ってしまいました。そこに保健福祉部長が別の案件で来まして、ステージのコンクリートパネルが気になると言われ、もう一度そこを立ち入り禁止にしました。すると、その日の夜に余震があり、それで落ちてしまいました。もし立ち入り禁止にしていなかったら命を落としていた人もいたかもしれないと、真っ青になりました。危ないところは危ないとしっかり明示しておかないといけないという教訓です。

(聞き手)
 震災前後で、地域住民のコミュニティに何か変化はありましたか。

(鎌田様)
 震災に関係なく、昨今は住民同士のつながりが薄くなっていると思います。ですが何かとよく言われるように、遠くの親戚より近くの他人なので、コミュニティを大切にする必要があると思います。残念ながら、コミュニティは自然と薄れてきますが、その速度を遅くし、できれば充実させることが、これからなおさら重要になるのではないかと思います。また、市役所の中でも震災に対する温度差が生まれてきているように思います。そこを全庁で意識統一し、復興はこれからなのだと改めて認識してもらう必要があると思います。

(聞き手)
 東日本大震災を経験して、後世に伝えたいことや教訓はございますか。

(鎌田様)
 多賀城高校の生徒の方々が、ここまで水が来たというのを示す事業をしていますが、もっと大々的にそれを行う必要があると思います。常日頃から、例えば道路を通っているときなどにも、視覚に訴えて「ここまで津波が来た」と感じられるような工夫や取り組みが必要なのではないでしょうか。産業道路や国道で車ごと流された方が半分を占めていることからすれば、それが一番なのだと思います。
 これは個人的な話になりますが、各家庭で避難所に集まれないときに、どこに集まるのかを話し合っておくことも必要ではないかと思います。現に、私の家では決めました。

(聞き手)
 最後に、市への要望やここまでで言い残してしまったことがあれば、何でも構いませんのでお願いいたします。

(鎌田様)
 ことわざに、「天災は忘れた頃にやってくる」というのがありますが、その通りなのだと思いました。そのため、震災を忘れないことと、職員でも家庭でも、次の世代に伝承していくことが必要なのだと思いました。おそらく、これが一番難しいことなのではないかと思います。代替わりを何度も繰り返し、その中で段々と意識が薄れていきますが、それを極力、当時のことをそのままに伝えていくことが大切なのでしょう。